日本経済のトレンドと働き方改革「なぜ賃上げなのか」/伊藤元重氏
2018年07月13日 07:00
この記事に書いてあること
なかなか上がらない賃金
日本経済の需要は着実に拡大している。
経済の規模を示すGDPは拡大を続けている。20年ぶりに過去のピークであった1997年の水準を超えたことからも、日本経済がやっと長く続いたデフレから脱却しつつあることがわかる。企業収益は過去最高水準を更新し続けている。企業の目から見ても景気は回復しつつあるのだ。
こうした回復を反映して、労働市場はますますタイトになっている。有効求人倍率は約40年ぶりの高さとなっている。
問題なのは、これだけの好条件が揃っているのに、賃金の上昇スピードが鈍いことだ。
物価が上昇を始めても、賃金が上がらなければ、実質賃金はかえって減少してしまう。消費への影響が懸念される。名目GDPが増えても賃金所得が十分に拡大しないので、労働分配率は低下を続けている。景気が拡大しても、労働者の取り分が縮小するようでは、経済の好循環が回ることにはならない。
そうした中で、政府は賃金上昇を実現しようと躍起になってきた。積極的に賃上げに取り組むように産業界に働きかけてきた。政府に決定権がある最低賃金については、ここ数年、過去最高のペースで引き上げてきた。それでも賃金はなかなか上昇しない。
その理由として大きいのは、日本的雇用慣行とも言うべき、終身雇用とその下での賃金決定だ。
将来経営が厳しくなっても賃金を下げることは難しい。そこで、いま少しは景気が好転したとしても、安易に賃上げはできない。これが多くの経営者の考えていることだろう。賃金の下方硬直性が、上方にも賃金を硬直的にしているのだ。労働の需給環境に敏感に反応する非正規労働の賃金が大幅に上昇しているのに比べて正規労働者の賃金上昇のスピードが鈍いのは、こうした事情を反映している。
政府は、こうした事態を改善しようとして、経済界に大胆な賃上げを行うように要請してきた。経済界でもこうした政府の要請を受け入れる企業が増えてきて、今年の春闘は例年に比べて賃金上昇幅は大きかった。こうした流れも今後も続くかどうか注目されるところだ。
日本経済の復活の鍵を握る賃上げ
なぜ賃上げが必要だろうか。
上でも触れた点だが、賃金が上昇すれば勤労者の可処分所得が増加する。これは消費の拡大を通じて経済の活性化につながるはずである。労働者への分配率が低下を続けているという閉塞的な状況を打破するためにも、賃上げは必要なのだ。
賃上げが必要な第二の理由は、賃金と物価の相互作用を引き起こすことが必要だからだ。デフレから脱却することが日本経済の活性化の大前提であるが、賃金が上昇することなく物価が持続的に上昇することはあり得ない。
以上の二つはよく取り上げられる論点だが、賃上げが必要な最も重要な論点はこれ以外にある。
生産性の上昇に関わる点である。賃金が上昇していないということは、労働市場の調整機能が動いていないということだ。人手が足りない分野では人手を確保することができないまま、旧来の低い賃金でビジネスが継続している。人が余っている分野では、低い賃金に甘んじて、旧来型の生産性の低いビジネスが続けられている。それでも賃金が上がらないので、労働でのミスマッチが続いている。
仮に賃金が大幅に上昇したらどうだろうか。
人が不足している分野は、賃金を大幅にあげることで初めて人手不足を解消することができる。ただ、高い賃金を提供するため、生産性の高いビジネスモデルへシフトする必要がある。一方で人が余っている分野では、賃金が上昇すればそれによる人件費の増加をカバーするだけの生産性の上昇が求められる。人余りの分野でもビジネスモデルの改良が求められるのだ。
結局、賃金が上昇することで、労働のミスマッチが解消され、人手不足の分野も人が余っている分野も、より高い生産性が求められるのだ。賃金が上昇することで労働のシフトがおき、経済全体の生産性を引き上げるような調整が始まるのだ。
読者の方は人余りの分野という表現に抵抗を感じるかもしれない。社会全体に人手不足が広がっていると考えている人も多いだろう。
ただ、現実には潜在的に深刻な人手余りに直面している産業も少なくない。AIやIoTなどの技術革新で必要のなくなる労働は膨大な規模になると言われる。フィンテックに揺さぶられている金融業界などはその典型である。
こうした人手余りの分野から人手不足の分野に労働の移動が起きることが、潜在成長率を高める上でも有効である。賃金の上昇はそうした調整を促す上で重要な役割を果たすことになる。
上昇を始めた賃金
日本の賃金はなかなか上昇しないと述べた。ただ、こうした状況はここにきて少しずつ変化しているようである。
非正規の分野では労働力不足はますます深刻になり、その賃金はさらに上昇を続けている。正規の市場でも、例えば新卒の採用では売り手市場がますます顕著になり、労働力の確保が難しくなっている。多くの企業が、労働力を確保することの重要性を認識し、賃上げはやむを得ないと考えるようになっている。
労働市場がタイトになれば、賃金も上昇する。この当たり前の原則が、日本でも前面に出てきたのだ。人手不足と人件費の上昇に悩む企業にとっては嬉しい話ではないかもしれないが、賃金上昇は日本経済を活性化させる鍵を握っているのだ。
著者プロフィール
伊藤元重(いとう もとしげ)
現職 東京大学 名誉教授 学習院大学 国際社会科学部 教授
税制調査会委員、復興推進委員会委員長、経済財政諮問会議議員、社会保障制度改革推進会議委員、公正取引委員会独占禁止懇話会会長などの要職を務める。 著書に、『入門経済学』(日本評論社、1版1988年、2版2001年、3版2009年、4版2015年)、『ゼミナール国際経済入門』(日本経済新聞出版社、1版1989年、2版1996年、3版2005年)、『ビジネス・エコノミクス』(日本経済新聞出版社、2004年)、『ゼミナール現代経済入門』(日本経済新聞出版社、2011年)など多数。
記事執筆
働き方改革ラボ 編集部 (リコージャパン株式会社運営)
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